ぱらつり記

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山月記と言文一致

現代文で山月記を読んでいますがこの作品すごい。

メンタルにくる

なかなかメンタルにくる。
国語で取り上げられる作品と言うと

  • 「ごんぎつね」
  • 「ちいちゃんのかげおくり
  • 「少年の日の思い出」

といった作品が(自分の中では)出てくるけれども、 山月記はそれとはまた違った方向に重い。

現代文と言っても少し前の年代の作品かーと思っていた自分にずーんとのしかかってきました。

自分に欠如しているものに憧れる。欠如ゆえの憧れ。
執着してきたものを失う恐ろしさ。通じ合うことへの絶望。
他者の不在によって膨らむ臆病な自尊心と尊大な羞恥心との間で揺れ動く心。

特に自分のコミュ障っぷりと少なからず重なる部分がつらい。

言文一致

山月記は言文一致運動の前後に書かれた作品ですが、その言文一致と言うワードは中学の歴史でしか聞いたことがなく、今回の授業での解説で初めて理解しました。

現代に生きる私たちは、 かえるが池に飛び込んだ という出来事を書き留めようとするとき、「蛙(かわず)池に飛び込みけり」とは記しません。 そのまま「かえるが池に飛び込んだ」と記します。

しかし、以前は話し言葉と書き言葉を別物として扱っていました。
すなわち、頭で考えたことをペンで紙に記した時点でその意味合いが違ってきてしまうということが起こりました。

それまでの書き言葉の方が格調高いという声もありましたが、これでは一部の人しか理解できず困るということで言文一致運動が起こり、話し言葉と書き言葉が同一のものとなるようになりました。 それによって、自分の見たままを、頭で考えたこと、ひいては自身の内面をダイレクトに表現できるようになりました。

山月記中島敦が人虎伝を参考に執筆したといわれる作品ですが、 人虎伝と比べ山月記の李徴は 外ではなく内側に目を向ける、孤独で内省的な人物 と そのキャラ付けが変わっています。

授業では、

言文一致という新たなツールを用いて自分の内面を表現できるようになった結果、 対比して自分の外面を見ることができるようになり、 自分だけが知る本当の自分と他人から見られる自分とのずれから起こった悲劇を描いた。

という解説がされました。 文章の捉え方は人それぞれですが、これがメンタルにくる理由の一つなのかなと。

今では当たり前なことですが、日本語が右読みから左読みに変化したことと似た感覚ではなかったのかと考えると、 言文一致というのはんまー大きな変化で先人の努力は大抵のものではなかったのだろうと思うのです。

自分の場合国語力どころか人の話まともに聞けてるか怪しいのでそれ以前の話なんですけどね!!

参考

www.nhk.or.jp